おっさんは戦争映画と文庫本が餌

裏町徘徊中年のガード下壁新聞

映画「迷子になった拳」に対する共鳴と発見

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「迷子になった拳」公開中。監督・今田哲史。

映画『迷子になった拳』公式サイト

 ミャンマーの格闘技ラウェイとその未知の世界に飛び込んでゆく若い日本人選手2名を中心にしたドキュメンタリーである。2016年から2019年にかけて長期撮影された膨大な映像を110分に編集している。ラウェイはボクシングのようにグローブをつけず、拳に薄いバンテージを巻いただけで殴りあうストリートファイトにも似た暴力性の強い格闘技だ。ある種アンダーグラウンドともいえる世界を母国ミャンマーに長期取材したクレイジージャーニー的話題性と、映像制作会社をクビになり失職した監督のしみったれた個人史を重ね合わせた「私映画」な感傷の隠し味によって、テレビで放送される選手礼賛のスポーツドキュメントとは一線を画す「映画」になっている。ありきたりな感動やハッピーエンドはなく、格闘技興行という独特のアウトロー社会的な世界の抱える不安や不条理を目の当たりにさせたまま終るのが私にはむしろ心地よかった。

 そういうドキュメンタリーになっている理由は製作者たちの属性に関係があるのではと推測する。

 製作のマメゾウ・ピクチャーズは本作のエグゼクティヴ・プロデューサーでもある久保直樹の会社だが、彼は「マジックミラー号」でおなじみのAVメーカーDEEP'S(ディープス)の設立者でもある。(AV監督マメゾウとしての経歴の一部は拙著「ニッポンAV最尖端」文春文庫の第5章「格闘技とポルノは融合できるか」にもあるとこっそり宣伝しておこう。

https://www.amazon.co.jp/dp/B018JRLI2O/ref=cm_sw_r_tw_dp_CVWAZSBPZG1GZHG2QQK1   )

 彼は久保直樹の名で一般映画を多数製作していて、もっとも有名な作品はAVメーカー・ソフト・オン・デマンド(SOD)が製作配給した「あ丶!一軒家プロレス」(04年)の監督だが、「マメゾウ」の変名で多数のAVも監督している。もともと「ニュース・ステーション」(テレビ朝日)などの報道番組でスポーツドキュメントを演出していた経歴があり、格闘技にも造詣が深く、本作はお手のものの題材だ。

 監督の今田哲史はタートル今田の名でやはりAV監督を長くしていた。ドキュメントAVのジャンルでは巨匠のカンパニー松尾の会社ハマジムで社員監督をしていた人材で、本作で監督が独白する「会社を辞めてこの作品を撮った」の会社とはハマジムのことだ。今田監督は00年代初頭、現在ほどAVのマーケティングが確立していなかった時代に業界入りし、比較的自由にAVを演出できた最後の世代である。

 配給・宣伝のSOPTTED PRODUCTION代表の直井卓俊はやはりAV監督の経験がある松井哲明監督の「童貞。をプロデュース」(07年)同「あんにょん由美香」(09年 AV女優林由美香の死をテーマにしたドキュメント)、同じくAV監督としてベテランだった井口昇が監督した「片腕マシンガール」(08年)の製作や配給を手がけており、本作はいわば製作から配給までAV業界に近い人材のラインによって支えられた作品なのだ。

 それはこの映画の根底に封建的・保守的な男性主義・女性蔑視的視線があるという意味ではさらさななく、ましてや作中にセクシーな女性モデルのサービスカットが溢れているわけでもまったくない。むしろ色気というものをまったく感じさせない構成だし、主人公のひとりである金子大輝が母親にコテンパンに罵倒されるシーンなどは肉体のマチズモを超越する女性の本質的な強さ・逞しさを示しているようだ。

 彼らの属性がこうしたマイナーな格闘ドキュメントの独特の空気に反映されるのは、まず企画が会社やスタジオが要求するマーケティング的な要求ではなく個人的な興味から出発しており、製作者が被写体に密着する動機性がとても強い点があろう。90年代までのAVは企画から撮影、編集までほぼ個人作業によって作られ、個性が非常に重要なファクターだったし、市場が拡大傾向だったこともあり、製作者の趣味性の強い作品作りができた。本作の演出の底にはそうした経験があると思える。

 ところがその構図は00年代後半に海外発のインターネット配信ポルノが登場して市場がマーケティング主導型になり崩れ、監督の今田の退社もその影響が波及したものであろう。本作にはそうした挫折からのリベンジの気分が込められた気配があり、それは作中に登場する日本人ラウェイ選手たちのモチベーションとの共鳴を強く感じさせる。

 またAVはテレビや映画と同じような大手資本が要請する社会的倫理の枠に収まった定型的構成に従わず作ることのできたカウンターカルチャーでありオルタナティブなメディアであったため、そこで働いた人間には大手企業が建て前として求める表層的ヒューマニズムで完結させようとのこだわりは希薄である。そこに作り手が本作のようなドライでリアルな展開に寄り添える理由がある。私も長くAV雑誌に原稿を書いていたので、同じフィールドにいる感覚の共鳴を感じたこともある。

 また私がこの映画が好きなのは、私自身、ラウェイにも興味があったこともある。

 私はラウェイという格闘技の存在を2005年頃に知った。90年代末から2000年代前半にかけ、総合格闘技ブームが最盛期となる。「PRIDE男祭り」や「Dynamite!!」「猪木祭」など大型格闘技イベントが大晦日夜に並んで中継されていたのが03年頃であり、当時の異様な熱狂を記憶している方も多いだろう。「マウントをとる」といった対人関係の比喩的スラングはこの時代の格闘技用語に由来して普及したのだ。

 そしてその時代の過当競争や興行的・人材的限界によって05年を境に総合格闘技ブームは急速にしぼんでゆき、そうした中で格闘技は小規模で開催できる独自ルールのイベントへ拡散してゆく。前田日明が関与した「HERO'S」や「THE OUTSIDER」などが比較的記憶に残っているものだ。そうした群雄割拠てき状況の中で一瞬注目されたのが、グローブをつけずに顔面を殴りあうラウェイ派生の立ち技系格闘技イベントだった。日本ではフルコンタクト系のFSA拳真館が主催する「CHAOS MADMAX(ケイオス・マッドマックス)」などが素手(バンテージ)・顔面攻撃ありルールのイベントを定期的に行い、私は道場や会場に取材に行ったりした。しかしそれらも人材の薄さやルール・ブッキングなどに課題があり、やがて興行のアナウンスを聞かなくなる。これがおそらく、映画の中でも触れられている日本におけるラウェイの導入期だ。たしかにミャンマーから選手を呼んだラウェイの興行もあったはずだが、当時、それを見に行った人間の話では「ミャンマーのラウェイ選手は体形が小さくて大型選手には勝てない」といった評価だったように記憶している。

 私はプロレスではデスマッチ系が好きな人間で、格闘技もオーソドックスなスタイルよりは周辺的で極端なスタイルを好む。ラウェイはその趣味に合致した競技だった。

 「迷子になった拳」でも日本導入期のラウェイについて少し触れている。それは主催関係者の間でも「キワモノだから」と言われていたことも映像に使われている。ウエイトルールが明確にされないまま試合が行われる問題についてもはっきりと描かれている。そうしたネガティブな要素ゆえに、私は00年代後期には日本でのラウェイの芽は摘み取られてしまったと思っていたのだが、本作を見るとその後もラウェイを指向する人々はおり、2010年代に改めてムーブメントがあったことを本作で初めて知った。これは嬉しい発見であった。後楽園ホールでの興行がたびたび出てくるが、それはミャンマーの興行を忠実に踏襲しようとする本格的なスタイルで、実際に会場まで見に行けなかったことを映画を見ながら悔やんだ。

 本作でも触れられているが、ミャンマーの政情不安が現地のラウェイ興行に悪影響を与えている可能性があるし、新型コロナの問題も日本でのイベント開催を躊躇させる要素になっている。いずれ興行があれば、必ず実戦を見たい。

 作品に難があるとすれば、3年間の撮影素材を110分に押し込んでいるために、ダイジェスト作品という印象がかなり強いし、そのためにラウェイのルール説明や試合映像がかなり端折られている点だろう。登場人物も多いし、前述したような日本のラウェイ史など盛り込むべき要素はあまりに多い。

 私はむしろ、Netflixにあるような45分×数回の連続シリーズとして再編集してみるのが面白いのではないかと思った。毎回違った角度で選手の挫折と希望が描けるボリュームがあるし、クライマックスにフルサイズに近いサイズで試合のシーンを持ってくることもできるだろう。今回の上映を契機として、関係者にこの文章が届くなら、改めてロングバージョンの再編集を一考いただきたい。案外のってくれるプラットフォームもあるのではないかと思うのだが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

セルビア人側から描くコソボ紛争版「七人の侍」、「バルカン・クライシス」

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 DVDで「バルカン・クライシス」。とても良い。ロシア・セルビア合作。監督アンドレイ・ヴォールギン。2020年ショーケース公開。コソボ紛争を背景にセルビアと支援するロシア側から描いたハードな現代戦映画。ユーゴ紛争映画では残虐に描かれることの多いセルビア人だが、ここではコソボ独立側のアルバニアイスラム武装勢力のほうが超残虐な殺戮集団として描かれ、その背景に(いちおう善意の立場だが)NATOがいるという構図。官僚的で戦場の実状を知らないNATOに対し、戦地のまっただ中にいる兵士が「この現状を見ろよ」との視点の映画といえる。

 バルカン半島・旧ユーゴスラビアボスニア戦争がようやく決着したと思ったら、続いてコソボで戦火があがり、コソボ自治州セルビア人保護のためにロシアが治安維持部隊の派遣を計画。輸送拠点の空港施設を確保するため、先遣部隊としてボスニア戦争時に反NATOの行動をとりロシアを追放されていたはぐれ者小隊が極秘に再招集される。

 現地は「軍服を着たギャング」といわれるアルバニアイスラム武装勢力コソボ解放軍の分派なのだろうが、基本的には私兵っぽい)が支配、セルビア人市民を容赦なく殺しまくっている。武装勢力のボスをアレクサンダー・セレコビッチという恐ろしい顔のセルビア人俳優が本当に憎々しく演じて映画を盛上げる。

 ボスニアコソボなどユーゴ紛争のをEU諸国が作ったり、アルバニアが製作した戦争映画(『メタル・オブ・ウォー』という作品が日本版DVDとして発売されている)ではこの構図は全く逆で、容赦ない虐殺、民族浄化を行なうのはセルビア人ばかりだ。そのセルビアの背後にいるのがロシアで、両者はキリスト教東方正教でつながっている。EUとロシア、どちらの立場が正しいとはいえず、戦争とはそういうものだから仕方がない。その辺の複雑な構図は千田善の「ユーゴ紛争」(講談社現代新書)や「なぜ戦争は終らないか」(みすず書房)などを読むと理解しやすい。千田善はイビツァ・オシムサッカー日本代表監督だった時代に通訳をし、オシムの評伝も書いているので文章が平易で旧ユーゴ情勢と民族紛争の本もとても読みやすい。

 コソボ州辺境の空港は武装勢力のアジトになっていて、治安維持部隊の本隊が到着するまでわずか7〜8名のゲリラ部隊が怒濤のように襲い来る武装勢力数十名に抵抗して空港施設を維持するという、この辺は「七人の侍」のフォーマットではあるが、キャラの描き分けやら戦闘やら編集やらがぬかりなく、ハリウッド映画のように娯楽性は高い。はからずもロシアの政府や軍のやり口がこの映画に表れている。ただし正攻法ばかりでは埒があかないのでいろいろ反則するのはロシアばかりではなく、アメリカもEUも同じだ。

 そうはいっても本作の本質はロシア・セルビアの政治プロパガンダであり、徴兵啓発映画なのだから…と引いた気分で見ていたのだが、最後の最後でエー!!と驚いたのは、なんとほとんどカメオのような形でエミール・クストリッツァが出演してるではないか! まぁ出たがりのオッサンではあるのだが、いちおうセルビアの血を引いている人であるが、政治的にはニュートラルな人かと思っていたので、こういう片寄りの強い映画にも出てしまうのだなぁと驚いた次第。ただクストリッツァが出てきた途端、本作のプロパガンダ性に逡巡していた気持ちがサッと晴れるような気になるのが恐い。というか、それが映画の戦略だとしたら大したものだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

インド、ヒンドゥー・ナショナリズムを描く問題作「URI サージカル・ストライク」

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 DVD『URI サージカル・ストライク』2019年インド映画。監督アディティア・ダール。劇場未公開。

 興味深いインド製戦争映画。戦闘シーンは迫力がありハリウッド映画に見劣りしない。「URI」は特殊部隊の略称ではなく、パキスタンと国境紛争が続くカシミール地帯にあるインド軍駐留基地の地名。なので「ユーアールアイ」ではなく「ウリ」と読む。

 現実の事件にもとづく物語とされ、2016年に起きたパキスタン非政府系武装勢力によるウリ基地の襲撃(インド兵17人死亡)に対する報復として、インド軍が同勢力の拠点をサージカル・ストライクするまでを描いている。発端の事件は以下のリンク。

「サージカル・ストライク」は局所攻撃と訳され、パキスタンの非政府系武装勢力=テロ組織の拠点への越境ピンポイント攻撃を意味している。なぜそのような作戦がとられるのか。非政府系武装組織の拠点のみ攻撃するのは、国に対する攻撃にはあたらないとの口実になるからだ。つまり戦争回避の方便である。しかしインドはパキスタン政府が関与しているのも知っているし、パキスタン政府も非難はするが報復はしない。

 この事件そのものと、事件以後の将兵たちの作戦への献身や家族、友への愛情、国家をあげての対テロ作戦完遂を描くとてもよく出来た愛国・軍礼賛映画だ。

 本作に対する驚きのひとつは、ロシアやトルコなど周辺に紛争を抱える国が軍事行動の周知や募兵啓発(インドは徴兵ではなく募兵制)のために作る国策的戦争映画を、インドも作り始めたのかという点だ。軍に対する称賛とナショナリズムへの傾倒は徹底しており、少女に「勇気と犠牲は美徳の極みなり」と鬨の声を叫ばせる描写には、強い軍国主義者でないかぎり、日本人はかなり違和感をおぼえるのではないか(その少女は日本の空手を学んでいるのだが)。とはいえ、ポジティブにとらえるならば、『URI サージカル・ストライク』はインド映画のひとつの新しい潮流であるといえる。

 インドの戦争映画とは珍しい印象があるかもしれないが、映画王国なので当然、つくられないわけはなく、これまでもビデオ・DVDストレートの形で何本かさりげなく日本に入っている。70年代の第3次インド・パキスタン戦争をテーマにした『デザート・フォース』という97年の作品は湾岸戦争映画ブームに便乗してビデオ発売されている(この時代は同じように湾岸戦争映画のふりをしたイラン製イラン・イラク戦争映画も多数発売された)。その当時のインド映画であるから当然、戦争映画でも突然ダンスが始まるシーンがあり、リアリズムというよりも戦争英雄礼賛のファンタジーという色が強い。戦争映画としては珍品という印象の作品だった。

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 90年代の印パ国境紛争を描いた大作『レッド・マウンテン』 という作品もDVD発売されている。日本版DVDは全長版ではないようだが、人海戦術を使った大味な映画だった。

 

 そうした過去の戦争映画に較べると『URI サージカル・ストライク』は映像は非常に緻密に、ハリウッド風に構成され、また事実に基づく物語として政治的・社会的背景もしっかりと組込まれている。質の高い映像は見る者の愛国心をたっぷり刺激し、その作劇はナイーブな感性で見れば感心もできる。兵士たちの純粋さに涙する視聴者もいるかもしれない。

  そのいっぽうで、本作を見て驚くもうひとつの別のベクトルがある。

 本作の冒頭にはナガランド、マニプールなど北東部の少数民族弾圧を正当化する描写がある。インド国内から見れば彼らは反政府武装勢力でありテロリストでもあるのだが、外部から見ればそれはヒンドゥー・インドによる独立を求める少数民族の弾圧、同化政策なのだ。

 映画に描かれる少数民族ゲリラへの容赦ない報復と掃討作戦は第三国から見て果たして容認してよいかと戸惑わせる容赦なさがある。

 インド北東部の少数民族7州、いわゆる「セブン・シスターズ」と呼ばれる地域の人々に対するヒンドゥー・インドによる弾圧は日本ではおそらく知る人も少ないと思うが、それは中国における新疆ウイグル人ミャンマーにおけるロヒンギャへの迫害などと同根の深刻な人権侵害を孕む問題であり、映画がよく出来ているからといって看過できる描写ではないのだ。

7姉妹州 - Wikipedia

 インド東北部の北部7州におけるインドによる弾圧問題は多良俊照「入門ナガランド」(社会評論社)やカカ・D・イラル「血と涙のナガランド」(コモンズ)などに詳しいが、その人権侵害の歴史と虐待の実際はあまり日本人の知るところではないかもしれない。

https://www.amazon.co.jp/dp/4784503765/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_leycEbYEPXJDQ

https://www.amazon.co.jp/dp/4861870836/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_U_WeycEbFBR0W7J

 『URI サージカル・ストライク』を見るとナガランド・ゲリラはアフガニスタンにおけるタリバンや中東におけるISのようなテロリスト集団として描かれているが、前記二書などを読めばその認識はまったく違っていることが分かる。

 インドは日本人にとってカシミール問題や核ミサイル保有の問題を抱えているものの、比較的穏健で友好的な国家というイメージがあり経済連携についてもあまり国民から批判が出ることは少ない。それはナガランドやマニプールなどへの弾圧の事実を知らないからだ。またヒンドゥー教国家という背景もインドを穏やかで温かい印象にしているかもしれないが、宗教国家は異教に対しては徹底的に冷淡で、残忍に排除を試みることも本作を見るとよく分かる。我々は鈍感になりがちだが、皇室行事をマスコミが大きくとりあげている日本についても、他国からは同じように見られているのだろう。

 DVDを見る多くの人はナガランドやマニプールに対する描写をありがちなテロリスト掃討として見るかも知れないが、実際にはそこに少数民族弾圧と独立闘争の長く複雑な歴史があることを知った方がいい。

 丁寧に作られたインドのナショナリズム賞揚映画という価値以上に、本作はこれまであまり関心がもたれなかったインドの北東部7州問題を発見させるオルタナティブな意義をもっている。インド国内的にはナショナリズムの粋であった大ヒット映画が、国外的にはしられざる暗部を掘り起こすことになったという構図が、とても興味深く、また本作品への最大の驚きだった。

  今もインドはパキスタン武装勢力に対する「サージカル・ストライク」を続けている。その意味では『URI サージカル・ストライク』はとてもタイムリーでアクチュアルな戦争映画といえる。

パキスタン、インドの「空爆」に対抗すると カシミール地方で緊張高まる - BBCニュース

 逆に北東部7州の動向は、日本ではあまり報道されることはない。そのことを視聴者は見落すべきではない。

 

 

rental.geo-online.co.jp

 

 

 

 

 

スプリングバック・ウエスタンとでもいうのか南アフリカ製西部劇「ファイブ・ウォリアーズ」

 DVD「ファイブ・ウォリアーズ」2017年南アフリカ映画。監督マイケル・マシューズ。日本公開2019年「未体験ゾーンの映画たち2019」。

 南アフリカ内陸部が舞台の西部劇スタイルのギャング映画。登場人物のほとんどは先住民(黒人)で、アパルトヘイト時代、鉱山開発と鉄道敷設で奥地へ追いやられた先住民が廃坑後のゴーストタウンで殺し合う。非北米製のアウトサイダー・ウエスタン。

 監督がおそらく大ファンなのだろう、セルジオ・レオーネへのリスペクト度が超強力で、「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」「ウエスタン」「続夕陽のガンマン」オマージュなどなどでこちらもニヤニヤだが、おそらくレオーネ好きすぎのため演出も超もっさり、映画は約2時間なのでドラマがぜんぜん展開せず眠くなる。終盤になりならず者たちの決闘が始まってからはなかなか良いが…

 時代設定は自動車まで出てくる近現代だが重要なモチーフとして鉄道が使われる。南アフリカ内陸部の鉄道敷設は金鉱開発と密接につながり、アメリカの西部劇と舞台の歴史状況が似ているのかもしれない。音声仕様は「コサ語ほか」と先住民言語。きちんとした解説付きで見直したい。

 ラストは「続…」の例のアレをやっているが、なぜこういう結末になるのかよく分からなかった。

 オーストラリア映画「プロポジション 血の誓約」、中国映画「双旗鎮刀客」、韓国映画「グッド・バッド・ウィアード」など非アメリカ製西部劇は興味をかきたてる。誰もが自国を舞台に撮ってみたいジャンルだろうが、「ファイブ・ウォリアーズ」のように好きすぎて空転するケースもある。未成熟の部分はあるが興味深い映画だった。あ、「スキヤキ・ウエスタン ジャンゴ」てのもあったか……


いわばアーリー80'sの全裸監督ならぬ「全裸刑事」か、『ダーティ・ガイズ パリ風俗街潜入捜査線』

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 DVD『ダーティ・ガイズ パリ風俗街潜入捜査線』2018年フランス/ベルギー。監督セドリック・アンジェ。日本公開2019年(カリコレ)、同DVD発売。

 まず舞台は1982年とテロップで示される。モミアゲとヤサ男の刑事コンビがパリの歌舞伎町、ピガール地区に覗き部屋(個室あり。大人のオモチャ屋と映画館も併設)を開業して、同地に根を張るマフィアの監視を命じられる。マフィアの検挙は現行犯逮捕が重要である。だから彼らは潜入捜査で決定的な場面をとらえるように命じられるのだが、映画が始まった時、すでに二人は風俗店の営業にかなり馴染んだ状態で、捜査などどうでもいいという雰囲気を見せている。麻薬も嗜んでいる。美しい風俗嬢と四六時中イチャイチャしている竜宮城状態。そりゃ命令など忘れてしまうだろう。

 この序盤のピガールの描写が夢のように素晴らしい。この序盤を見るだけで、本作は役割を終えたといっていい。覗き部屋(50才以上のオッサンは当然構造を知っているが、知らない人は映画を観て分析するしかない。ここではその構造を説明はしない)の女たちの夢のようなダンスや、ピガールの退廃的な雰囲気。それはおそらく郷愁として描いているから美しいのであって、オンタイムではそうはいかないかもしれない。

 95年製作、98年日本公開(ほぼVHSストレート)の『ピガール 欲望の街』(監督カリム・ドリディ)というB級映画があって、当時VHSで見たけれども、これほど美しくピガールを描いてはいなかった。

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  『ダーティ・ガイズ〜』におけるピガール描写はとても美しく、もしかすると日本映画でもこのように美しく80年代の歌舞伎町を描く作品ができるかもとの可能性を感じさせる。Netflixの『全裸監督』におけるミッド80年代歌舞伎町再現セットも面白かったがどちらかといえば裏通りの場末ムードに寄せた作りだった。ミッド80年代の歌舞伎町の表通りにはグランドキャバレーや高級クラブもあったのだし、もっと華やかに描く方向もあった。もちろんそれと村西とおるの居場所は合致しないから仕方ないが(実際の村西は全盛期には歌舞伎町を拠点にはしなかった)、別の映像作品で80年代の歌舞伎町をとてつもなく美しく描いてみることはできるのでは。と、本作とはあまり関係ないが、そんなことを感じさせる『ダーティ・ガイズ〜』の序盤ではあった。 

 

 そしてこのとてつもなく美しいピガール地区のパートが終ると、長いダレ場が訪れる。潜入捜査の任務から逸脱し、風俗店の売上促進に使命感を感じた刑事コンビはポルノ映画の監督を起用して覗き部屋のストリッパーたちのプロモ映画を作ろうと考える。8ミリフィルムだろうか、その映画を販促材料として彼らの店は売上を増やしてゆく。

 1982年という年代は映像媒体がフィルムからビデオへシフトチェンジする節目であって、その後ミッド80'sになると『全裸監督』の時代になり、ビデオポルノがブームになりフィルム・ポルノの産業は衰退へ向かう。しかし『ダーティ・ガイズ〜』にはポルノビデオの製作状況は出てこず、すべてフィルムで撮影され、その優雅で職人芸的な制作現場が描写の中心になる。

 主人公たちの敵だと思われていた敵たちがポルノフィルムの製作に憑かれてゆき、主人公もそこにすべてを注ぎ込む。パリ郊外の別荘地でノーブルなポルノフィルムの撮影が行われる様子が、映画の眼目になってゆく。それは興味深くもあるが、日本人視聴者にはわかりにくいシーンでもある。監督がその時代のフランスのポルノ産業を再現しようとしたのか否かも分かりにくい。私は洋画ポルノ(洋ピン)そのものの知識が乏しく、フレンチ・ポルノといってもサンドラ・ジュリアンの『色情日記』(71年)を撮ったマックス・ペカスぐらいしか知らない。アメリカ人のラドリー・メツガーが撮った『イマージュ』も有名だし好きだけれど。

 アーリー80'sでは、女優ではタランティーノも愛好しているとされるポルノ女優、ブリジット・ラーエぐらいしかこの時代とリンクする人名を私は知らないが、あるいは本作では、ビデオ時代にシフトする直前にフィルムポルノで職人芸的な技を見せたフランスでは有名な作家をリスペクトしているのかも。そのジャンルの文字資料としては二階堂卓也の「洋ピン映画史 過剰なる『欲望』のむきだし」(彩流社)が監督名や女優名、時代性背景について実に詳しく記述しているけれども、実際に映画を見ていなければ作家や女優の重要性については理解しにくい。

 なので『ダーティ・ガイズ〜』の中盤以降はずっとダレ場が続くような印象も受けるのだが、人物や描写の意味が理解できれば感想は変わるかもしれない。

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 ラストシーン、フィルムポルノを撮影中の監督が、美しい夕日に向かって女優たちが歩いてゆくファンタスティックな場を見て思わず「カメラを回せ」という。それがフィルムポルノの落日と重なっているようにも感じられ、本作がフランスのフィルムポルノへのオマージュとして作られた可能性も感じる。ただその解釈が正しいのかもちょっと自信がない。タイトルから想像される潜入捜査にもさほど重きをおいてはいないし、その混乱の過程も唐突で薄味だ。映画のベクトルに対する不満はそこもにある。もどかしい。ただ何かはありそうだと感じる。正解は識者の解説を待つしかないが、ほぼDVDストレートの本作は識者まで届くだろうか。

80年代アフガン紛争、地獄の最終局面を描く『リービング・アフガニスタン』

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DVDで『リービング・アフガニスタン』2018年ロシア映画。監督パーヴェル・ルンギン。日本公開2019年(カリコレ)、同DVD発売。原題「БРАТСТВО(=Brotherfood)」

 久々に見たアフガン戦争(ソ連のアフガン侵攻、78年-89年)もの。それも89年、ソ連軍撤退の内幕をハードに描く。ソ連の撤退戦を描く映画としては『レッド・ストーム アフガン侵攻』(91年 監督ウラジミール・ボルトコ)というVHS発売のみの傑作ソ連映画があるが、戦闘シーンをさらにハードに、かつ現代的手法で描いたこちらも傑作といっていい。監督のパーヴェル・ルンギンは90年の『タクシー・ブルース』でカンヌ映画祭の監督賞を受賞した名匠。

 アフガニスタン侵攻はソ連国内の内政事情(ペレストロイカ民主化要求の進行)などもあり80年代末期にはソ連の劣勢となり、88年に和平協定が調印されて撤退が始まった。本作の冒頭のテロップ「戦争を終らせるのは始めるより困難だ」が示すように、多民族のアフガンでは部族によっては戦闘を続けている集団もあり、ソ連軍の撤退は混乱を極めた。地域によってはムジャヒディンの攻撃が止まず、ソ連軍は祖国への退路すら確保できないありさまだった。その撤退路確保の交渉役にKGBが呼ばれる。KGBはムジャヒディンとソ連軍との仲介に暗躍し、ナアナアの関係の模様で、軍服を着ず丸腰で交渉に赴き話をつける。ただし移動中を狙われて何度も殺されかける。こうした戦地での交渉役の描写が独特であり、今の時代でなければ描けない題材かもしれない。

 手持ちカメラを用いたドキュメンタルな戦闘シーンは凄まじい戦死をストレートに描いている。無駄死にや虐殺も描かれ、けっして従軍を美化してはいない。それが05年の『アフガン』(原題『9 ROTA(第9小隊)』11年日本版DVD発売)と本作の決定的な違いだ。これは最近のロシア戦争映画では特異な主張に感じられる。

 撤退を前にしたソ連軍のヤケクソ的な略奪的行為と並行し、スティンガーに撃墜された航空機から脱出、ムジャヒディンに拉致されたソビエト将軍の一人息子(パイロット)の奪還作戦が描かれる。作戦に駆り出されたのが祖国への帰還を目前にした第108軍の兵士たち。あとは帰還するだけと知っている彼らは、自分の身を守ることとアフガン人から盗むことしか考えていない。その結果ますますひどい状況が生まれるのだが、戦闘の最終局面ではムジャヒディンも無理はせず鷹揚に金で解決することを求める。と思ったら、ソ連軍は相変わらず最後にクソを投げつけて帰ってゆく。暗澹たる終盤である。しかしこれが戦争の現実だとも強く納得させる。

 БРАТСТВО=Brotherfoodという題はどういう意味なのか。司令部、KGB、兵士の間に兄弟のような連帯感はまったくない。そういう感動的な映画ではない。むしろ終盤、ムジャヒディンの首領が最後に人質になった兵士にアレクサンドル・ファジェーエフの「若き親衛隊」のアフガン版書籍を見せて、「我々はここから多くを学んだ」と革命やソ連軍の軍紀についての尊敬を口にする、その部分に意味があるのかなと思ったり(「若き親衛隊」ってそんなに薄い本か?とも思うが)。

 ファジェーエフはドイツ占領下のウクライナでのパルチザン活動を描いた「若き親衛隊」で46年にスターリン賞を受賞した。ところが47年に政府によってこの作品が否定され、改作を余儀なくされている。それでもファジェーエフはスターリンを信奉し、スターリンの死後の56年、フルシチョフスターリン批判をしたことに衝撃を受け、自殺した。Brotherfood、兄弟というタイトルは、このように常に権力に手のひら返しされた弱者たち連帯を意味しているのだろうか。この後、アフガニスタンでは武装勢力による泥沼の内戦が始まる。ソ連は連邦解体と経済崩壊の地獄が待ち受ける。東側ではいくつもの国で独立戦争や内戦が始まる。戦争の終結は必ずしも平和の到来ではないのだ。

 資料がないと完全には分からない部分もいくつかあるが、独特の緊迫感と迫力に満ちた傑作戦争映画である。

 

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総合格闘技版「ロッキー」+αのロシア映画「ヴァーサス」

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 DVDで『ヴァーサス』。2016年ロシア映画。監督・ヌルベク・エーゲン。劇場未公開、日本版DVD発売17年。

 面白い。総合格闘技版「ロッキー」をカーチェイスの薄皮でサンドしたオッサン好みの単純娯楽映画。序盤のカーチェイスは中盤の格闘家の葛藤・復活シークエンスの伏線になっている。祖国愛や正義をふりかざすのではなく(いや、多少はふりかざしているが)、けっこうビッチな美女をめぐっていい歳の男がみみっちい鞘当ての果てに大変なことになり、どう考えても全員破滅という何も考えてないのか皮肉的なのかよくわからない結末も不謹慎で私的には大変よろしい湯加減。男性観客としての本音を無神経に言ってしまえば、主人公と悪役を天秤にかけるヒロインが諸事件の根源にあって、主人公も敵役もそれなりに“持ってる”男なのだから別に女を作ればいいだけなのに、そうはできない魔性があるのか。岡目八目で見てトラブルのもとになる余計なことばかりしてる女を諌めるでもなく、男たちはみんな童貞の初恋みたいなピュアな心理で動いている。高校生じゃないんだからさ、大人ならもっと自由に女遊びしろ、女なんていっぱいいるんだからと苦笑しながら見ていた。この程度の映画が気楽で良いのだが、近年はそういう作品すらない。日本映画なんかは特に。映画というフィクションなのにの夫婦生活を大切にしてどうすると切に思う。

 主人公の格闘技シーンはよく頑張っている。まあ普通なら試合できないシビアな状況だがそこは映画だから仕方ない。序盤はオクタゴン、クライマックスはリングでオープンフィンガー着用のMMA。相手役は00年代に何度も来日してるメルヴィン・マヌーフ。2016年の映画だが、まだ体はしっかり作れている感じで強そうには見える。

 私は本作で敵役を演じるアントン・シャギンという中居正広みたいなバブル男にとくに魅力を感じた。モヤシ系の坊っちゃんだが、利己的な極悪人というわけでもなく、主人公の格闘家の莫大な手術代を出世払いで出してやったり、アホな女たらしだが、つきあった女には純粋な愛を捧げて無責任なヤリチンというわけでもない。暴力もふるうが、それは女が別の男になびきそうな時だ。ギャンブル好きな性格も私には共感しやすい要素だったし、本物の極道にうまくあしらわれているのも可愛い(というかバカなのだ)。こういう中途半端な悪役は私にとって理想的な男性像だ。敵役が魅力的に描かれている映画が私にとっては良い映画だ。敵役の造形が魅力的なほど、ボンクラでも主人公は光る。本作はその典型的なものだ。

 中居正広もこういう役ができれば俳優として成功するかもしれない。ぜひ研究してほしいと言ったところで届かないだろうけど。

http://ヴァーサス https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B07KRJR6P4/ref=cm_sw_tw_r_pv_wb_JRvBt70t5hEhN

 

Netflixタダ見の日々 その第2週〜4週

5/4『ジャドヴィル包囲戦 6日間の戦い』アイルランド南アフリカ映画 監督リッチー・スマイス。

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 『ジャドヴィル包囲戦』とは聞いたことのない戦闘だったが、それもそのはず60年代のコンゴ動乱、それも初期段階の局地戦である。

 60年代初頭にベルギー領から独立し共産圏に接近したコンゴ共和国で銅山などの地下資源に恵まれたカタンガ州がもと宗主国ベルギーの支援を受けてコンゴからの独立を宣言、これを阻止しようとする政府軍との間で内戦状態となる。ここに国連が介入、治安維持軍として要衝ジャドヴィルに派遣されたアイルランド軍小隊150名が、ベルギー政府が雇った傭兵軍団を中心とした3000〜5000人の武装兵に囲まれ、陣地の防衛を余儀なくされる。わずかな火器しか持たず戦闘経験もないアイルランド部隊だが、襲いくる民兵相手に善戦、6日間陣地を守り抜きその後カタンガ側に投降。ひとりも戦死者を出さずに降伏した部隊は帰還後、祖国で「憶病者」と非難されたが、その背景には国連の無策や現地司令官の優柔不断、援軍派遣できなかった見通しの甘さなどがあったとのちに分かり、むしろ6日間も戦い抜いた小隊は讃えられるべきとする近年の報告を映画化したものだ。映画の原作となるデクラン・パワーの『The Siege at Jadotville The Irish Army's Forgotten Battle』はWikipedia英語版によれば05年の発売で邦訳はない模様。かなり近年に明らかになった戦局なのだ。つまりジャドヴィル包囲戦については日本人はこの映画でしか知りようがなかった。

 そもそも60年代のコンゴ動乱について和訳されている資料は少ない。井上信一の「モブツ・セセ・セコ物語」(新風社 07年)は内戦後コンゴ民主共和国(旧ザイール)で長く独裁をしいたモブツ大統領を描いた労作だが、コンゴ動乱の具体的な戦局については大きくページをさいていはいない。

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https://www.amazon.co.jp/dp/B07GWYRWJK/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_4Aw0Cb8VH8ZB2

 この頃のコンゴ情勢についてはむしろフレデリック・フォーサイスのクラシック「戦争の犬たち」のほうがうまく伝えているかもしれない。同書は架空の国家を部隊にしているが、主人公のモデルになったフランス人の傭兵隊長ボブ・ディナールらしき人物がこの映画の敵役になっている。映画『ワイルド・ギース』とよく似たベレーをかぶっているが、酒場で初めてアイルランドの小隊長と出合って、ビールを飲む隊長に「本当の酒を教えよう」とコニャックを勧めているから、彼はフランス人傭兵なのだ。(いっぽうアイルランドの隊長は司令部に援軍や弾薬補給を頼む際にいちいち『ウイスキーも』というのがいかにもアイリッシュ)。「ワイルド・ギース」はそもそもアイルランド傭兵につけられた仇名で、片山正人の「コンゴ傭兵作戦」

https://www.amazon.co.jp/dp/4257172258/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_vCJ8Cb0WJ1NV5

などにも詳しいが、『ジャドヴィル包囲戦』とはほとんど関係がない。

 アイルランド国連派遣軍と傭兵軍団には10倍以上の戦力差があったのに、本当に守備戦が可能だったのかという疑問もあるかもしれないが、3000人といっても多くは地元民や国外から出稼ぎにきた民兵であり、まともな軍事訓練を受けていな者もいる。また百戦錬磨のリーダーたちも、主要任務は鉱山とその経営者たちの警護なので、この戦局で自分たちがリスクを冒してアイルランド軍を殲滅させる理由もない。だからアイルランド軍の小隊は助かった可能性もあるが、映画はどちらかといえば小隊長の的確な指示と投降の見極めに重きをおいて描いており、美談化されている印象も。詳細は原作のノンフィクションを読んだほうが分かりやすいかもしれない。いつか邦訳されるのを待とう。

 

5/7『レストレポ前哨基地 part1』アメリカ映画 監督セバスチャン・ユンガー/ティム・ヘザリントン

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 Netflix映画ではないが、見たいと思っていたので購読。劇映画を見ようと思っていても、ついドキュメンタリーを見てしまう。

 アフガニスタンの山間部、もっともゲリラ活動が活発と言われる地域にアメリカ陸軍の先遣隊が赴き、山岳地を見渡せる尾根に手作りの前哨基地を設営する。その建設作業中にもタリバンのゲリラからたびたび銃撃があり、到着初日に死者がでて、基地の名称のもとになったギター名手の兵士レストレポも狙撃され死亡する。

 そうした危険地帯にジャーナリストが同行し、兵士の行動を撮影した驚くべき記録である。まずその野心的な取材姿勢には驚愕するしかないが、舞台に密着して記録された内容は、イラク戦争をモチーフにした米軍批判寄りの戦争映画にあまりにもうり二つでそこにも驚く。米軍はその戦術に関してまったく反省はしていないのだ。

 ゲリラ掃討のために一般市民の住む集落を空爆し、市民が犠牲になる。基地の防衛のために農民の所有する牛を殺す。民間人をやたら逮捕投獄する。そうしたことの繰り返しで彼らの米軍への支持を失ってゆくが、反省がないのは兵士たちが基地にいるのは短い期間で、やがて彼らはヨーロッパの在留米軍基地や故郷のアメリカに帰ってゆくのだ。

 全体に分かりにくい部分もある。それを補完するように同じ撮影素材からまったく別の編集をした『part2』も作られている。そちらも見ようと思ったが、途中で脱落。

 

5/12『鋼鉄の雨』韓国映画 監督ヤン・ウソク

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 北朝鮮のクーデター計画が発覚、事前情報を得て計画阻止、首謀者射殺を命じられたもと特務工作員チョン・ウソン)が任務に失敗、重傷を負った将軍様(顔出しNG)を救出して韓国に脱出。大統領秘書官(クァク・ドウォン)に救われるが、来たの工作員が続々と暗殺に襲来し、ふたりは逃亡と真相究明に動くうち気心が通い…というバディ・ムービー。大前提の設定がかなり過激なので一般の配給会社が二の足を踏んだのは理解できる。そのあたり配信を請け負うNetflixの度胸は大したものだとも思う。ただ映画の出来としては普通の面白さかなと。チョン・ウソンは健康的すぎて、彼に与えられた大きな設定を表現しきれていないのと、クァク・ドウォンはウスノロに見えて実はやり手といういつも通りの設定で新味がないのと。ポリティカルな部分もかなり劇画的。日本に対してムニャムニャ…の展開もあって、ふつうの配給ルートでは日本公開はできなかったかもしれない。その意味ではネット配信された有り難みは感じた。悪くはないが、イマイチでもある。139分あり、劇画調映画としては長い。配信用の映画は観客席の回転率を考慮する必要がないので長くなりがちだ。大いなる欠陥である。

 

5/15『バスターのバラード』アメリカ映画 監督ジョエル&イーサン・コーエン

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 正直いって今回のトライアルをした目的の1作ではある。◎本命『ROMA』、○対抗『バスターのバラード』。その意味で期待は裏切っていない。

 コーエン兄弟の新作でNetflix配信ストレートという理由を推測すると、奇妙な味わいの西部劇の短編集という企画が既存の配給会社には物足りなかったのか、あるいはもうコーエン兄弟にもさして動員力はないか。Netflixがこの作品に圧倒的に興行価値を感じたとの解釈は考えにくい。ネームバリューによる宣伝効果を理由に出資したか、旧作を回転させるためのお薦めアルゴリズムが、クラシカルな西部劇に需用があるとはじきだしたためかもしれない。

 この作家らしい無駄に美しすぎるウエルメイドな映像であり、各話ともアイロニカルな失笑を誘い、突然に死を迎える神なき非情の世界を描いてブラックな余韻を残す。素晴らしくもあるが、これまで何度も見てきた彼らの世界を超えてはいないようにも。あえて雑に作ったマカロニウエスタンのような映像を混ぜてみせるような技量の冴えも欲しかったところだ。

 私はトム・ウエイツが主演した『金の谷』がお気に入りだが、主演がトム・ウエイツである必要があったのか。あまり顔も映ってないし…。この映画もやや長い気が(133分)。若者が映画の勉強をするにはすぐれたテキストかもしれないが、オッサンは別にこれじゃなくても。と言いつつタダ見をしてる。すごい時代だなと……

 

5/17『ROMA』メキシコ映画 監督アルフォンソ・キュアロン

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 本命、さすがの貫録であるが、これがキュアロンの映画でなければ私はおそらく見ていなかっただろう。また既存の配給会社が手をつけなかった理由も分かる気がする。とはいえ見始めたら止まらなくなり、一気に見切ってしまった。オープニングロールの床の洗浄、犬の糞を洗い流していたのが分かって苦笑。まったくモノクロ映画であることを特権的に利用した、人を食った見事な開巻だった。

  近現代メキシコの入植白人と下働きする先住民の関係から始まり、オリンピック前の高度成長メキシコの歪みを見せ、クライマックスの本当にこれが必要なのかと思わせるほどの驚愕の長廻し、ワンシーンワンショットを見せつける。地味な話なのに凄いし、見たことのない世界を再現してそこに没頭させる。改めてキュアロンは素晴らしいと思う。21世紀のキューブリックなのかもしれない。

 主人公の家政婦を演じるヤリッツァ・アパリシオを妊娠させる日本の居合を学んでいる青年が、左翼デモのカウンターとして働いているのが興味深い。日本の武道が描かれているのは日本人には嬉しい演出だが、それがメキシコにおいても左翼弾圧の先兵であるのはひとつの本質でもあり悲しくもなる。日本ではこの当時、左翼対策として空手が推奨され、革命阻止のための暴力装置として機能した。笹川良一が力を持っていた時代であり、やがて空手は「仮面ライダー」や「空手バカ一代」などを通して、少年に広く普及し保守的指向を植えつけてゆく。仮面ライダーの敵・ショッカーは国際共産主義運動コミンテルンの比喩であるし、昭和ライダーの最終回や1号、2号の交代時には主人公が東欧や南米など社会主義の優勢な地域へ派遣されてゆく。「空手バカ一代」に描かれた極真会館の有力なスポンサーは統一教会国際勝共連合と関係の深い新聞「世界日報」だった。それと似たような保守政権の啓発行動が、日本の武道を通して行われているのはなかなか興味深かった。

 メキシコオリンピックが行なわれた1968年、メキシコシティでは「経済的基盤が充分でないのに五輪を開催するのは専制政府が仕組んだ陰謀」と叫ぶ多くの反政府・反五輪の市民がデモを繰り返していた。そして開会式10日前、五輪スタジアム前のトラテロルコ広場でデモの群衆約1万人に対し、事態終結を急ぐ政府は軍による排除を命令、兵士の発砲によって250人が射殺、1200人が負傷という大惨事が起きている。いわゆる「トラテロルコ虐殺事件」である。「ROMA」の背景にはそうしたメキシコの政情不安があり、武道を学ぶ青年たちは同時に体制支持、反政府左派勢力の打倒を刷り込まれていた。日本発の武道がそのような保守的民兵の育成に貢献していることは、あまり日本人が意識しない要素である。

 そして「ROMA」後半に描かれるデモや暴動シーンはつまり、大きな悲劇の序曲なのである。。そうしたメキシコの影の歴史、ハードな政治運動をさりげなく描いている点も私にとって「ROMA」の魅力だ。

 ちなみに「トラテロルコ虐殺事件」のような重大な事件が開会式や五輪開催そのものの障害になるかと思いきや、メキシコ政府は開催を強行、当時のIOC会長ブランデージも「開催の障害はない」とアッサリ容認する。60年代の出来事とはいえ当時のIOCの人権感覚はおそるべきものだ。この経過やIOCの体質は間近に五輪開催を控えた日本人も憶えておいたほうがよい。

 

5/18『78/52』

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 ヒッチコックの「サイコ」の有名なシャワールームのシーンがどのように撮られ、映画史にどのような影響を与えたかを検証したドキュメンタリー。失敗や妥協がいかに完成映像に反映されているかが分かって興味深いが、時代背景や先行作品などへの言及が整理なくバラバラに並べられていて理解しにくい。やや風呂敷を広げすぎたか、取材ノートをそのまま提示されたような印象。書籍「映画術」のほうが分かりやすく整理されている。これにあわせてそのその名著の成立を追ったドキュメント「ヒッチコックトリュフォー」を見たが、こちらもあまり面白くなかった。書籍の成立については通訳が残したインタビューの録音テープがでがかりだが、映画一本になるほどのドラマはなく(研究すればあるのだろうが、作り手が執念深く取組まなかっただけかも)、途中から「めまい」や「サイコ」の副音声コメンタリーめいた作りになってしまう。要するにかの書籍を名著たらしめているのはトリュフォーのインタビューとまとめ方が上手かったという一言で片づいてしまうのかもしれない。映画作家がそのことにあとから気づいてももう遅かったのだ。

 

 

5/19『コードネーム・エンジェル』

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 イスラエル映画。監督アリエル・ヴロメン。エジプトとイスラエルの和平条約(キャンプデービッド合意)の裏で暗躍したエジプトのエスピオナージュを描く実話をもとにした作品。主人公がかなり優柔不断でダメな奴と思わせラストでひっくり返し、さらに計算外の副作用が…という話。生真面目で古くさいスパイ映画というよりも、エスピオナージュ映画と呼んだほうがしっくりくる内容で、イスラエル映画だから当然、日本人が知っている俳優も出演していない。若者が反応する内容ではなく、まずオッサン向けだ。スリルがあり面白いが、イスラエル映画なので価値観がイスラエル寄りなのが、当たり前だがやや引っかかるものを残す。

 

 

 ということでこの1ヶ月のトライアルの間にNetflixで15本を鑑賞したことになる。このまま継続すればスタンダードコースをチェックしてるので月1200円、 一本あたり100円以下になりとてつもなく安い料金設定ともいえるが、まあここまで一生懸命見ない月もあるだろうから、定額制はちょっとなぁと考えてトライアルのみで解約にした。Netflixはトライアルのリミットが近づくとメールで教えてくれるからとても良心的だ。アカウントは残っているから、いつでも再開できる。また見たくなったらその時に再加入すればいいのだ。当分リトライの案内は来ないだろうから、次はちゃんと課金で見よう。

 いっぽうでCS放送の録画が貯まっていたり、DVDでしか見られない作品もあって、少しNetflixから離れたいという感覚もある。Netflixは新作映画、とくにオリジナル作品は優れたものが多いように思うが、クラシック作品に弱いのが難であり、たとえば『風の向こうへ』を見たあとウエルズの、『78/52』のあとヒッチコックのクラシックを見たくなっても、Netflixにはわずかなタイトルしか用意されていない。その辺で私はDVDレンタルが恋しくなるのだ。またアクション映画に関していえばカット割りの細かく劇伴が途切れないハリウッドスタイルが多くて、もう少しノンビリしたヨーロッパ映画的な男性映画も見たくなるのが正直なところだ。

 

 と、この下書きも随分長く放置してしまったが、結局いったん解約してNetflixを離れたものの、少しして仕事のために再び課金契約。2019年9月現在課金を続けている。けどそれほどNetflixばかり見ているわけではなく、相変わらずGEO宅配レンタルの80円とか55円とかの旧作キャンペーンの利用が多い。自分の好みの作品がそこに多いということだろう。新作はAmazon primeで見たり。当然、劇場に足を運ぶ機会がどんどん減っていて、いちばん割をくっているのは配給会社ということになろう。

 まあ私がDVDや配信で見ているのはオッサン向けの映画ばかりなので、配給会社や興行業界はそういうオッサン趣味とは別の角度からマーケティングを追求しているわけで(たとえば少年少女のデート用とか、職業をもつ女性用の週末のレジャー用とか)、棲み分けはごく自然な成り行きかもしれない。

 

(8月追記)

 その後書籍「NETFLIX コンテンツ帝国の野望」(新潮社)を読んで、DVDの郵送レンタル時代の経営戦略などを知り、00年代のNetflixにおいてはDVDの旧作レンタルをいかに効率化するかが重要であったかを理解した。旧作お薦めのアルゴリズムの進化によってNetflixは旧作レンタルだけで利益を出せるようになり、あおのアルゴリズムはストリーミング時代にも活用されていると。おしらくDVDを何度もレンタルするのは男性映画好きのオッサンが高い割合で、オッサンの趣味を分析してゆくとクラシカルな白黒映画や西部劇、エスピオナージュ映画、戦争映画がはじきだされるのだろう。もちろん違う傾向のオリジナル作品も多く作られているが、私へのお薦めには反映されない。

 こうした部分に日本の映画業界とNetflixマーケティング分析の違いがあると思われ、興味深い。今のところNetflixの課金状態は維持されているが、実はあまり配信作品を見ていなくて、どうしようかな〜と悩んでいる状況だったりする。

 

 

 

 

 

 

Netflixタダ見の日々 その第1週

 吝嗇家なので2度目のNetflix無料トライアルに4月22日に加入し、以降見た映画の備忘録。前回のトライアルは2年ほど前で、結局1ヶ月間に数本しか配信を見ずに終わり、有料に移行する前に解約してしまった。当時、いや今でもそうだが、私はGEOのネットレンタルでロシアやトルコや東ヨーロッパや中南米の男性映画を見るのが好きで、ここ数年は旧作50円セールの時にどっとDVDを借り(さすがケチ)、レンタル期間の20日間をかけてのんびり見るのが性に合っていた。それがNetflixを利用しなかった最大の理由である。

 その後Netflixはオリジナル作品をどんどん公開し、そちらの評判がかなり聞こえてきて、では再び見てみるかという気になった。さすがに仕事もあるので1日に2本も3本も道楽で映画を見られる環境ではないが、果たして1ヶ月のトライアルの間に何本見るか、そして有料へ移行するか、備忘録代わりにこうして書いている次第だ。

 

4/22「グラス・イズ・グリーナー 大麻が見たアメリカ」。監督ファブ・5・フレディ

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 アメリカにおける大麻非合法化の根源をアメリカ独立以来のメキシコ移民の忌避、黒人文化の排除だと主張するドキュメンタリー。テンポ良く面白く、大麻常用者はみな健康そうで長寿の者も。スヌープ・ドッグなんて老けたけど元気そうでなにより。合法化すると自治体の税収が上がり、アングラ組織の弱体化にも効果。この辺は昔から言われ続けている。アメリカでは個人使用の大麻は合法化続々。日本は現体制で合法化は当分難しいので、見ていて嫉ましい思いも。日本の野党政治家は大麻の合法化やポルノ解禁など、庶民に届きやすい法改正をなぜ訴えないのだろうか。まさか大麻やポルノが真に害悪だと信じているのだろうか?ならばますます彼らに勝ち目はない。

 

4/23「イカロス」。監督ブライアン・フォーゲル 

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 アマチュアの自転車ロードレース選手でもある映像作家・ブライアン・フォーゲルが実験的にドーピングをし効果を実験。協力したロシア・アンチドーピングセンター所長のグリゴリー・ロドチェンコフは気さくでとても魅力的、映像的な人物である。フォーゲルはドーピングにより体力の向上を確信するが、自転車のトラブルでレース成績は向上しなかった。つまりドーピングだけで必ずしも競技成績に結びつかないという結論が前半。

 その後ロシアでオリンピック選手の組織的ドーピングがニュースになり、中心人物でもあるグリゴリーは渦中の人物となる。ロシアは国家関与を隠蔽するために、関係者の粛正を始め、謎の死を遂げた重要人物も。ロドチェンコフはアメリカに逃れ、作家の庇護のもと逼塞の日々を。この後半はサスペンスフルでもあるが、ロシアからの刺客が現実に現れるわけではない。またロシアのドーピング問題もすでに片づいている案件であって、この作品の告発が初でもない。

 NHK BS-1の「BS世界のドキュメンタリー」はすでに2016年7月に「ドーピング ~ロシア陸上チーム・暴かれた実態~」(2014年 ドイツWDR製作)を放送、2014年の疑惑の発端からWADAで問題化するまでをかなり詳細にレポートしている。

ドーピング ~ロシア陸上チーム・暴かれた実態~ | BS世界のドキュメンタリー | NHK BS1

 「イカロス」にはグレゴリーがフォーゲルに「俺の映画を見たか?」というのは、このドキュメントではなかろうか(未確認)。私はBS放送をすでに見ているので「イカロス」のロシア告発の部分に関しては、ことさら新しい要素を感じなかった。見る時期が遅かったのかもしれないが、衝撃性は乏しく尺が長すぎる印象しか残らなかった。ただし、BSのドキュメンタリーではほかのロシア上層部の人物と同じようにごく官僚的に描かれていたグリゴリーが、実はものすごく庶民的で面白い人物なのは発見だった。つまりロシアのドーピング問題の渦中にいる人々は、必ずしも我々が想像するKGB幹部のような冷徹な官僚タイプばかりではないということだ。作家の視点が違えば描かれる事件の構造そのものも違って見えてしまうドキュメンタリーの多面性が典型的に現れている。

 

4/24「物ブツ交換」。2018年 監督タムタ・ギャブリシズ。ジョージア映画。

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 グルジア改めジョージアの田舎で中古商品とジャガイモを物々交換する商人を描く。東欧の田舎の貧困を描こうとしているのかもしれないが、地域によってはまだこういう風習が残っていても別に変ではない。都市部との格差を糾弾しようとする作風でもなく、単に物珍しい風習を描いただけ? 中途半端だが、短いのが救い(23分)

 

4/26〜27 「風の向こうへ」監督オーソン・ウェルズ、ドキュメンタリー「オーソン・ウェルズが遺したもの」監督モーガン・ネヴィル、短編「オーソン最後の思い 40年の時を経て」。

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 最初に「〜遺したもの」を見て、続いて本編「風の向こうへ」、そのあと映像特典のような「〜最後の思い」を見る。

 本編「風の向こうへ」は大変素晴らしい。基本、主観やら時間軸やらメチャクチャで分かりにくい前衛作品だが、多種のカメラで撮影した素材をつぎはぎしたカットアップのような編集、映画の中の映画製作とその作品上映というメタ構造、ジョージ・ヒューストンやピーター・ボグダノビッチの素晴らしい演技など、完全に目が奪われる内容。ゴダールほど難解ではないし、退屈でもない。オーソンの映画に対する哲学を自己批評的に描いた作品で、主張はストレートに伝わってくる。

 この本編の改題というか、時系列や登場人物を解説したのが「〜遺したもの」で、本編によく似たカットアップスタイルで構成されている。未使用フッテージも多用され、映画の裏側を本編に近いリズムで描いたドキュメンタリーだ。本編の製作が、資金調達先であるイランの会社がイスラム革命で消滅し頓挫したエピソードなど大変興味深い。最初見た時はちょっと未整理でゴチャゴチャしてると感じたが、本編を見てもういちどドキュメンタリーも見たくなった。おそらく本編も再び見るのだろう。この本編→ドキュメントの循環によって、理解と感動が深まってゆく映画なのだと思う。

 40年間放置されたフィルムから完成させるまでを簡潔に解説した「〜最後の思い」(38分 監督ライアン・サーファン)もたいへん参考になる。この3本を見ただけで、間違いなく無料トライアルは大幅黒字の感覚。

 

4/28「クインシーのすべて」2018年 監督アラン・ヒックス/ラシダ・ジョーンズ 

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 おすすめ作品をスクロールしていたら偶然発見、こんな作品があったとはぜんぜん知らなかった。クインシー・ジョーンズの経歴をトレースする評伝ドキュメンタリー。あまり話題にならなかったことからも分かるとおり、クインシーは日本ではそれほど認知されているわけでもなく、おそらく一般的にはディスコ曲「愛のコリーダ」がもっとも有名という程度ではないか。曲だけでいえば、オッサン世代には昔、東京モード学院だったかのCMに「SOUL  BOSSA NOVA」が使われていたとか、「鬼警部アイアンサイド」のテーマ曲(むしろ『ウイークエンダー』のアイキャッチとして有名)とか、そのあたりが耳になじんでいるが、それをクインシーとは知らない人も多いと思う。「愛のコリーダ」ですらアース・ウインド・アンド・ファイアと勘違いしてる人も多そうだ。マイケル・ジャクソンの「スリラー」のプロデューサーであることも日本ではさして有名ではない。しかしクインシーは間違いなく戦後のアメリカ音楽を構築した最も偉大な作家のひとりであり、音楽業界からもっとも尊敬を集める人物ともいえよう。日本人がそこにアクセスしないのは、彼の人相がどこかギャングを感じさせ、ドラッグなどダークなライフスタイルを抱えた存在に見えるからかもしれない。そうしたネガティブな先入観を払拭するためにも、このドキュメンタリーは日本でもっと見られるべきだ。彼の現在のルックスがまるで土建屋のオッサンのようであっても、人を見かけで判断してはいけないとよ〜く分かる(実は私も少しは偏見を持っていた)。

 私は70年代のクインシーが好きで「You've Got It Bad Girl」や「Sounds… & Stuff Like That」などは愛聴盤でもあるから、少しは彼の経歴や偉業については知っているつもりだったが、この映画のクライマックスである16年のスミソニアン博物館アフリカン—アメリカン歴史文化博物館オープニングセレモニーのプロデュースはまったく知らず、唸らされた。クインシーの母親との重い関係や仕事のしすぎによる家庭の崩壊など、ネガティブな側面も描いているし、娘のラシダだから撮れたであろうプライベートな映像も満載である。ただ、やはり半世紀以上にわたるクインシーの業績をまとめるには2時間では駆け足になりがちだし、もっと彼のいろんな曲をぶち込んだサウンド・グラフィティにしてほしかった。なにより娘が演出していることで「偉大なDad」ばかりが前に出て、客観性に欠けたようにも思えなくもない。とはいえほかにこうした伝記の映画もないのだから、これは大変にありがたい映画だった。まぁ死後にまた別の視点からの映画ができるだろうが。面白かったです。

 これを見たあと、お薦めにコルトレーンのドキュメンタリーが出てきたじゃないか。うはー、これがNetflixということなのか。

 

4/29「コルトレーンを追いかけて」2016年 監督ジョン・シャインフェルド

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 ジョン・コルトレーンの生涯を辿るドキュメンタリー。とはいってもコルトレーンは50年以上も前に没しており、音声つきの動画の記録すらほとんどない。よって本作ではコルトレーンのファン、批評家、研究者などのコメントと、生前のコルトレーンのインタビュー(レコードのライナーに掲載されたものと)のコメントを顔の似てるデンゼル・ワシントンが読み上げる形で構成されている。BGMに途切れなくコルトレーンの名演奏が流れ続け、非常にムーディーである。ではあるが、基本的にはファンと好意的批評家の肯定的コメントで作られているので、センセーショナルな部分は少ない。前出のクインシーのドキュメンタリーは少なくとも生きているクインシーが画面を右往左往し、語り、至近の問題に自らコメントする親近感と同時代性があったが、「コルトレーンを〜」にはそれがない。ファンとして、友人としてビル・クリントンカルロス・サンタナがコメントしているが、なぜ彼らなのかがよく分からない。人選については若干不満がある。かといって、マイルスもモンクももう生きていないのだから話は聞けないが、一緒にセッションしたミュージシャンには

 レアだと思ったのは66年に来日公演した時の映像で、長崎での原爆慰霊碑への参拝や列車の道中の映像。ファラオ・サンダースがすでに三角の菅笠をかぶっている(Black unityやThembiのジャケを参照)。彼は最初からこういうのが好きだったのだろうか?それとも日本で発見したのだろうか?

 そんなことはどうでもいいが、長崎の映像ではステージまで撮影されていてビックリ。終盤、研究家の藤岡靖洋氏が登場し流暢な英語でコルトレーンを語る。ならば65年以降の猛烈な仕事ぶり、日本ツアーの強行軍などがどのように彼の病気に結びついたかなどを語ってほしかった。そのあたりのネガティブな言及がまったくない。NHKの地上波のドキュメンタリーみたいで、まったく食い足りなかった。これだったら「クインシーのすべて」のほうが断然いい。

 と、おおむね一周間が過ぎたところでGWの飲み会期間に入ってしまい、Netflix鑑賞は一時中断。ドキュメンタリーが多かったので、第2週は劇映画を選択したいと思いつつ。

 

 

 

 

 

アカデミー賞には絶対ノミネートされない、シリア内戦を描くイラン映画『ダマスカス』

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 DVDで『ダマスカス』。2018年イラン映画。監督イブラヒム・ハタミキア。日本公開18年12月(モースト・デンジャラス・シネマグランプリ2018=配給会社アルバトロスのショーケース公開)。

 たいへん面白い。イラン映画といえばアッバス・キアロスタミに代表されるような文芸映画、善良な家族愛映画などを想像する人が多いと思うが、本作はハリウッド映画顔負けの戦争アクション大作である。アメリカと対立しているイラン製なので、ハリウッド的な詰め込んだ演出になびくことなく、落ち着いたイラン映画のタッチ、家族愛などの描写をちりばめ、その上で凄惨な戦地の現実と壮大な映像アクロバットを見せつける。私が見たイラン製戦争映画ではナンバーワンかもしれない。

 舞台はシリアの古代遺跡があるパルミラ、主人公のイラン人が戦うの敵はIS=イスラム国である。劇中でイラン人やアラブ人は「ダーイシュ」と呼んでいる。アサドを支持するイランはロシアとともに政権軍に軍事的な支援をしている。主人公となるのは老いて現役を退いた空軍パイロットで、軍事アドバイザーとしてシリアに赴任している父と、イラン軍の現役パイロットの息子である。

 ISに占領されたパルミラから脱出する市民を乗せた輸送機を操縦するのが彼らのミッションだ。序盤はパルミラ到着までの激しい戦闘が描かれる。ISはマッドマックスに出てきそうな自家製装甲車両で自爆突撃してくるなど、奇想天外かつ残虐な演出がすごい。後半はパルミラ脱出の失敗と主人公の『ダイ・ハード』的な驚くべきミッションが描かれる。こんなことできるんかい!と唖然とする展開もある。これがアメリカ対ISの映画なら、手放しで絶賛する観客も多いだろうが善玉がイラン人とアサド軍ということでそこにわだかまりが生じる視聴者もいるだろう。敵対関係が複雑なイラン内戦に興味を持ったり、視点を切り替えて戦争を考えるきっかけにはなる。

 私がこの映画で初めて知ったのは、イラン軍とボスニア戦争の関係だ。主人公の父(もとイラン革命防衛隊パイロット)が関わった戦歴を口にし、幼少時の父の不在と職業軍人家族の運命を語るシーンで、ボスニア戦争の名前も出てくるのだ。検索してみると、確かにイランはボスニア戦争の時にムスリム人の支援をしており、多くの物資・武器は空輸で運ばれたようだ。アフガン戦争、イラン・イラク戦争湾岸戦争イラク戦争とイランは国境付近の多くの紛争に関与し独立を守り抜いている。当然、戦争映画も多く作られている。ただし日本で劇場公開されるイラン映画は文芸映画が多く、戦争を描いても、間接的にその傷跡を描くものが目立った。

 ただこれまで、イラン製の戦争映画が日本でまったく見られなかったわけではない。

  イラン製の戦争映画というジャンルに馴染みがない人も多いと思うが、実は日本にはビデオストレートでかなり早い時期から入ってきている。80年代、レンタルビデオバブルの時代にすでに『砂漠の聖戦』(88年)という作品が発売されている。買付けしたのは江戸木純氏で、彼の著作でも日本発売の顛末が書かれている。同作のパッケージには「日本初のイラン戦争アクション大作」とコピーが打たれているから、おそらく日本で最初にリリースされたイラン製戦争映画なのだろう。

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 さらに90年代初頭の湾岸戦争後、米軍の「デザート・ストーム作戦(砂漠の嵐作戦)」にひっかけて『デザート・イーグル』『デザート・ライオン』(ともに95年)など「デザート××」というタイトルの戦争映画が何本もレンタル向けでリリースされた。それらは湾岸戦争の米軍の活躍を描いているかと思いきや、アッと驚くイラン・イラク戦争の映画で、「騙された…」と思った客はかなりいたと思われるが、レンタル市場のビデオストレート作品でもあり、クレームをつける客も少ないおおらかな時代だった。私も当初は騙されたクチだが、存外イラン・イラク戦争の勉強にもなりレンタル落ちのVHSを買って今も大切にしていたりする。それらの発売元はアルバトロスが多かった。『ダマスカス』も配給・発売はアルバトロスで、なにか因縁めいたものを感じる。00年代以降もイラン製の戦争映画はいろいろリリースされ、多くはDVDストレートだった。

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 相当な戦争映画マニアでないかぎり、イラン製戦争映画は視野に入らない作品といえるが、そこにはアメリカでもEUでもロシアでもない、戦争に対する第三の視点がある。『砂漠の聖戦』をはじめ90年代までのイラン戦争映画は戦闘シーンが多くなく展開がスローで説教くさい難点があった。しかし『ダマスカス』はそうした欠陥が克服され、映像の迫力がすさまじく、これまでのイラン戦争映画と一線を画す。

 当然、本作のようにイランの保守強硬製作とアサド政権を支持する戦争映画はアメリカのアカデミー賞にノミネートされることは金輪際ない。なので、ある種の逆張り趣味のある方はこの機会にぜひ『ダマスカス』を見てほしい。ここにはハリウッド映画とその支持者が絶対に排斥する、だが間違いなくここにはアンチ米国の政治性とローカルな芸術・娯楽指向が幸福に融合した外国語映画の世界があり、米アカデミー賞が映画の全てでないことがよく分かる。

 そして本作は、そんな面倒なことをまったく考えない戦争アクションの好きなただのオッサンにも一定レベルの満足感を保証できる単純娯楽男性映画の良作である。